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大雲寺(だいうんじ)は、京都市左京区岩倉にある仏教寺院。宗旨は天台寺門宗系単立(天台證門宗)。山号は紫雲山。本尊は十一面観音菩薩で、岩倉観音・観音院などとも称される。 ==歴史== 縁起によれば、天禄2年(971年)日野中納言藤原文範が真覚を開山として創建したのに始まると伝えられ、園城寺(三井寺)の別院であった。文範は紫式部の曽祖父(式部の母の祖父)にあたる人物。真覚は藤原敦忠の子で、俗名を藤原佐理といい(三蹟の一人の佐理は別人)、村上天皇に近侍していたが、天皇没後、比叡山で出家した。大雲寺の本尊十一面観音は、聖武天皇の姿を写した行基作の一木作りで、内裏に伝来した像を、真覚の祖父にあたる藤原時平が下賜されたものという。天元3年(980年)には円融天皇の勅願所となる(小右記目録)。 永観3年(985年)には、冷泉天皇中宮・朱雀天皇皇女である昌子内親王により、寺内に観音院が建立された(日本紀略)。このことから昌子内親王を観音院太后とも称する。真覚の子の文慶法印が観音院の初代別当となった。法親王の墓は大雲寺の近くに岩倉陵として残っている。園城寺長吏、法性寺座主を務めた僧余慶(智弁)は観音院僧正とも呼ばれ、大雲寺・観音院との関係が深かった。天元4年(981年)、余慶は一門の僧数百人を連れて大雲寺へ移ったが、これは余慶らの寺門派(園城寺)と山門派(延暦寺)との対立を背景とするものであった。この頃の大雲寺・観音院は、多くの伽藍を有する大寺院であったが、その後の寺門・山門の抗争により、寺門の拠点であった大雲寺はたびたび兵火に見舞われ、焼失を繰り返した。保延2年(1136年)には当時残っていた伽藍が全焼してしまったことが『中右記』同年3月12日条にみえる。 元亀2年(1571年)、織田信長の比叡山焼き討ちに際して当寺も焼失している。江戸時代に入り寛永年間(1624年 - 1644年)後水尾天皇の後援を得て、実相院門跡義尊により本堂等が再建されたが、1985年に旧境内からやや離れた岩座神社東側に移転・再建された。旧寺地には余慶僧正ゆかりの閼伽井(智弁水)や不動の滝が残り、周辺には実相院宮墓、昌子内親王高倉陵などが残っている。 往時の佇まいはないものの秘仏ならびに寺宝類全ては現本堂に保管され、「脳病平癒の御利益」を求めて全国からの参拝者が絶えない。また天台證門宗の本山としても法脈は絶えることなく受け継がれている。 『源氏物語』「若紫」の巻に登場する北山のなにがし寺のモデルがこの寺(または鞍馬寺)であるとする説もある(歴史学者角田文衛の説)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大雲寺 (京都市)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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